寒いけどアイスは食べたいし
お出かけをしたいという気持ちだけはあったが、温かい部屋から一歩出ると気持ちがしゅんとなった。
午前出勤から帰ってきた夫と昼食を食べ、録りためていた番組を見る。
部屋にこもっていたい気持ちと、日曜日ならばなにかしなければという使命感でもやもやしていた。
夫に外の散歩を促され、パーカーの前ポケットに両手を入れてしぶしぶと子と外に出た。やはり寒かったが雪に喜ぶ犬のようにはしゃぐ子が可愛くてほのぼの見守りながら30分ほどウロウロした。すっかり運動した気持ちになった。
お義母さんがお出かけ先から帰ってきたので、外で写真を撮る。
昔の写真の画質の良さについて話しながら撮った。毎回のことだけど、ポージングの指示が「だいたいそんな感じで」「そのままでー」という感じで、やはり100%相手に委ねすぎなことは否めない。いつも反省している。でもカッコいいので、いつもお任せしている。
昼寝から目覚めると、床に感熱紙のロールがドゥルッと転がっていた。
まさかと思い先日夫が買った感熱紙のプリンターを見ると、やはりパッカーンと開いていて、子がぽかんとこちらを見ていた。まるで猫の粗相動画を見ているようだった。
奇跡的に破れていなかったので、再びキュッとぐるぐる巻きにして元に戻す。どうか壊れてませんようにと天に祈る。
感熱紙のロールをさわったのが小売業にいた頃以来だったのでとても懐かしかった。
夕方、夕飯前、どうしてもアイスが食べたくなりしょうがなくなった。妊娠のせいだとおもうようにしている。
夫に車を借りて「あなたが飲むコーヒーの豆が切れたので買ってくる」とわざわざ理由をつけてコンビニの駐車場でワッフルコーンをむさぼった。
ちょっとリッチなお値段だったのだが、カロリー表記を見ると値段以上の数字で思わずマジかよと声が出た。
その後、業務スーパーでコーヒー豆を購入して帰宅した。のんびりアイスを食べていたせいで閉店間際に着いたのであわてて必要な分だけ買おうと思ったが、誘惑に負けてミートソースを買ってしまった。1人分なのでどう考えても自分用だ。強欲すぎやしないかとやっと我に帰る。
帰るなり「チョコ買ってきたの?」と夫に言われたので、「や、アイス食べてきた」と白状した。どうやらはじめから見破られていたようだ。
自分が欲しいものばかりを買ってしまい、夫にビールの一本でも買ってこなかったことを若干悔いた。
しかし、先日朝5時まで飲んでいて昼過ぎまで二日酔いだったので、あくまで彼の肝臓をいたわったからだと自分に言い聞かせてことなきを得た。
その後、バナナマン日村さんが佐世保にロケにやってきた「バナナマンのせっかくグルメ」を観る。
素晴らしい食レポを披露する日村さんに感心しながら、夫が「日村さんもジョギング中にこっそり間食してるらしいよ」とわたしに言ってきたので、おぉ、わたしと同じじゃんかとホッとした。
【日常あれこれ】
マインドフルネスYouTuber住職
お世話になっている媒体「テマヒマ」の主催で行っている手間子屋ワークショップへ、スタッフとしてお邪魔した。
場所は上柚木町にある西光寺だ。
前回、ボイトレ講座でお邪魔して以来だなぁと思っていたら1年近く経っていたのでヒィッとおののいてしまった。
▲前回のボイトレ講座のときのブログです。里見住職は歌がうますぎてやばい
内容は「マインドフルネス瞑想ワークショップ」。
瞑想と聞くと、とても高尚なことのように感じるが、ここで学ぶのは至って実践的なことだ。
瞑想をすることで得られるメリットや心構えなどをわかりやすくフランクに教えてもらったので、敷居がグンと下がったように思う。
実践では、まずは3分間、のちに10分間の瞑想チャレンジ。
とにかくあれこれ考えずに、自分の呼吸にのみ意識を向けてやってみようというやつだ。あえて呼吸を深くしようとか、肩の力を抜いてリラックスしようとか考えてはいけない。
「いま鼻から息吸ってるけど冷たいなぁー、出すとき温かいなぁー」といった具合で、今自分に起こっているありのままの現象を俯瞰で観察し受け入れるのだ(あくまでわたしの感覚です)。
わたしのお腹には今7ヶ月の子どもがいるため、瞑想中はずっと胎動でボコボコしていたのだが、それでもひたすら呼吸のことをとらえ続けていると色々と面白い現象が起きた。
まず、置いた手の位置がわからなくなり、首から下全体がくっついて1つになっている感覚がした。ふわふわした粘土にボワッとくるまれたような感じだ。
この感覚は経験があって、サウナで熱いのをずっと我慢し続けた結果不快感がなくなった瞬間と、射撃で的を狙って撃っているときに調子が良すぎる状態、いわゆるゾーンに入った瞬間というやつだ(関係ないが、最近テニプリのアニメで「手塚ゾーン」が恐竜たちを滅ぼすシーンを観た)。
サウナの方はよくわからないが、射撃に関しては身体にすり込ませた一連の動き(弾、空気の充填、銃の構え、脱力、引き金を引く、フォロースルー)が無意識に近い形で出来るようになる状態で、満点が連続で出る。もちろん継続させるコツは、その点数を見ないもしくは見たとしても執着せずに意識を流す。まさに瞑想のそれと似たような感覚なのかもしれない。
なので一瞬でも集中が途切れると綻びが出て、バリバリと崩れてしまう。
今回の瞑想の場合は、危うく腸内のガスが漏れそうになりキュッと力を入れた瞬間、一体化していた身体のパーツが個々に戻った。うん、仕方がない。だってそればかりは大恥だもの。
そしてまた別々になった身体のパーツをじわじわとくっつけていく。
住職が講座内で「泥水を放っておいて、じわじわと分離していくのを辛抱強く待つ感じ」と言っていたが、まさしくそうだなとおもった。
10分間はあっという間に終わった。とても短かかった。
マインドフルネス瞑想、スピリチュアルなものだとばかり思ってたがこれは半分スポーツみたいなものだ。運動音痴のわたしでも大丈夫、かなり楽しいじゃないか。できる限り続けてみよう。子が寝てるときにでも。
ちなみに住職、ボイストレーナーでありYouTuberでもある。
こんなにたくさん歌えて喋れてうらやましいなぁとおもう。
▲里見住職のYouTubeチャンネル。
【日々あれこれ】
聞けども聞けどもイエモンだった
いろんな体位で猫を持ち上げるのがブームだ。時に首を絞めてしまうこともあるので、親たちは注意している。
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最近Amazonプライムで「ドラゴンボール超」を観ている。
原作に対してどうのこうの、という話はよく聞くが特に気にしない。
わたしはドラゴンボールシリーズは好きだがファンであるとはとても言えない。
悟空の妻・チチが牛魔王の娘だということも最近知ったぐらいだし、「桃白白」
なんて言いたいから言うだけのレベルだ。
本当のファンに大変失礼である。
では、ドラゴンボールのアニメを何故観てしまうのかというと、単純に野沢雅子の声が好きで鳥山明氏の絵のテイストが好きなだけだ。
あと、何も考えずに頭を空っぽにしてボーッと観ることができるのもいい。
幸い、子の食いつきも良いので、わたし一人だけ好き放題しているという罪悪感を抱くことなく視聴している。
OP曲がチャーラーヘッチャラーの時代で感覚が止まっていたため、超の吉井和哉氏のOPには多少戸惑ってしまった。聞けども聞けどもイエモンである。
さらにストーリーの合間で使われるBGMにチャーラーヘッチャラーのアレンジ曲が使われていたりするのでズッコケてしまう。
とりあえずぶっ続けで10話近くまで観た。俺TUEEEEな破壊神ビルス様にみんなが(まさかの神龍までも)ヘコヘコしまくっているのがとても悲しくなった。サイヤ人5人分で誕生した超サイヤ人ゴッドはとってもジューシーなさくらんぼ色の髪をしていた。
そのあたりまで観て、とりあえず番組を変えた。
超、と書いてスーパーと読むんだよなぁと思ったとき、ふと父方の祖父のことを思い出した。
昔は船乗りをやっていて、祖父母の家にはなにやら怖い置物やらお面やらがよく飾られていた。
たしか、海外からチンパンジーを連れ帰ってきて、そのまま父のペットにしていた気がする。父は、チンパンジーの飼育はとても大変だったと振り返る。
祖父は常にウイスキーやら度数の高いお酒を昼夜問わず飲んでおり、いつも酔っ払い状態だった。
彼の部屋にお邪魔すると、所狭しと並べられたVHSが。近所でレンタルしてダビングして、というのが本当に大好きだったようで、わたしたちが観るようにとディズニーアニメやアンパンマンなどもかなり膨大な数をダビングしていた。
その中にドラゴンボールもあった気がする。
それを毎週遊びに行くたびにガンガン観ていたので、わたしは当時のアンパンマンやドラゴンボールに関してはめちゃくちゃ詳しい。歌も歌えるぞ。
そんな祖父は、わりと口が悪かった。暴言とまではいかないが、子どものしつけに影響が出ると心配して母が顔をしかめていたぐらいだ。
もちろん悪意があったわけではなく、多少の愛着を持って発言していてくれたのだということは幼心なりにわかってはいたのだが、その言葉の中にどうしても理解ができないものがあった。
わたしたちの名前の頭に「スーパー」をつけるというものだ。
わたしならば「おい!スーパーチヒロ!」と呼ばれるわけだ。はじめは何が何やらわからなかったが、勢いが良かったので特に気にしていなかった。
理由を聞きたかったのだが、祖父は早くに他界(酔っ払って階段を踏み外し落下してからあれよあれよと弱ってしまった)してしまったので、いまでも「スーパー」のワードだけが頭の隅に残っている。
そんなことを、「ドラゴンボール超」きっかけで思い出した。
【日常あれこれ】
納期がちょい先だった案件、やっぱり今夜中に終わらせようかと迷いながら何故か板チョコを食べてしまったのでベッドに引き返せず、そのまま勢いで最後まで終わらせたので板チョコは結果0kcalですおやすみなさい。
— ヤマモトチヒロ@佐世保在住フリーライター (@chirol1660) 2020年1月17日
ファッションに疎い嫁がファッショニスタのお姑さんを撮るアカウントをはじめた話
Instagramで新しいアカウントをつくった。
これはもともとのやつで↓
新しくつくったのは、ファッションセンス皆無なわたしがファッショニスタのお姑さんをただただ撮り続けるほのぼのアカウントだ。
このアカウントでもしきりに伝えているように、お義母さんはファッショニスタだ。
物心ついた時から服に携わり、愛し続けて40年超。
とにかく持っている服や小物の数も、服の歴史やブランドの知識も、あの日どんなコーディネートで過ごしたかという記憶力も、なにもかもが桁違いだ。
その凄さを伝えたいのだが、いかんせん、わたし自身がファッションに疎く語彙力も壊滅的なため、「とにかくオシャレですごい」としか表現できないのが情けない限りである。
そんなわけで、わたしなりに彼女がどれだけすごいのかを写真で伝えることにした。
わたしの目から見たそのままだから、テキストはおまけ程度に魅力が伝わるだろうという甘い考えでもあるが、これが一番だと思ったのだ。
(ファッションに疎い)嫁である立場でお義母さんにお声掛けをするには少々恐縮な部分もあったが、二つ返事で快くOKをいただくことができた。
当時のわたしの内心は「うおぉー、よかったぁぁー」であった。
記念すべき1回目にアップした写真。
お義母さんの服装は、1日たりともコーディネートがかぶることがない。
「オシャレに楽をしない」が彼女のモットーだ。
平気でパジャマで1日を過ごしたり、昨日の服をそのまま着回したり干して乾いたばかりの洗濯物から適当に着るものを見繕うわたしにはとても耳が痛い。
しかしそれだけ彼女は服に敬意を払い、愛している。生活に欠かせないパートナーである。
2回目は元旦だった。
亡き父の着物を颯爽と着こなす姿にシビれる。
古着には、持ち主の思い出が宿っている。
それが大切な家族のものだとしたら、そしてもうこの世にいない人のものだとしたら。
袖を通すとき、なにを考えるだろう。
果たして自分がまとっているのは服だけなのか。そうではないはずだ。
わたしが成人式のとき、祖母の着物を着させられた。着せられたというには語弊があり、正確には気に入ったので自分から着た。
「わたしも着たから、あんたにも着てほしい」と母から勧められたことがきっかけだ。祖母も喜んでくれた。
周りがそれぞれに好きな色の華やかな晴れ着に身を包むなか、わたしはアイボリーの質素なたたずまいだった。
ショールも祖母のもので、朱色に亀甲のような模様が入ってとてもおめでたさ全開だった。
同級生から「何かのママや!」とつつかれまくったのを覚えている。なんかのってなんだ。スナックじゃないんか。
祖母が亡くなった今、振り返るとあの着物を着ることができたのはとても良い経験だったとおもう。
今ならわたしはどんな気持ちで袖を通すだろう。どんな祖母の想いを汲み取ることができるだろう。
「着る」ことの意味を考えさせられた、元旦での撮影だった。
3枚目。スムーズに撮っている風を装っていたが、使い慣れないカメラと日没で薄暗いという環境で、わたしは手に汗をかいていた。
4枚目。わたしはこれまで、ポージングの指示は一切出していない。
本当に魅せ方がお上手なのだ。
写真を撮られるときピースばかりしてしまう自分を卒業せねばと心に誓った。
5枚目。恐れ多くて撮影に緊張していたわたしだが(自分から頼んでおいて失敗したらどうしようなどとガクガクしていた)段々と楽しくなってきた。
「写真撮って!」とお義母さんからの一声があると余計に嬉しい。ハイ喜んで、である。
めまぐるしく変わるお義母さんの服は見ていて楽しい。
可愛いともおもうし真似できないともおもうし、これならわたしにもイケるか!?など、たくさんの刺激をくれる。
これからも撮り続けるのが楽しみだ。
そんな感じだ。
これでわたしの服装が少しはマシになるのかとか、そういった自分への還元はあまり考えていなくて、とにかくお義母さんへのリスペクトが表現できればそれでよいのです。
1年分ほど写真を撮り溜めたら、何かしらの形に残したいと密かに考えています。
もし宜しければフォローしてくださると嬉しいです。
【日常あれこれ】
やー、タートルネックのニットもエロいしスーツもエロいわ。良い一日だった。夫の話です。
— ヤマモトチヒロ@佐世保在住フリーライター (@chirol1660) 2020年1月12日
楽器を演奏するように履歴書をつくる
先日、妹1が自宅に遊びに来てくれた。
お昼ご飯を買ってきてくれると言うので、いつも悪いなと思いつつ遠慮していたら大好きなカヤバーガーだったのですぐさま食らいついた。
たらふく食事をしてお腹いっぱいになったいたはずの子が、われわれの食事の雰囲気に誘われて突進してきた。
すでにこの時にはバナナ1本とキウイ半分、ミルクを200ccと離乳食の中華煮を平らげていたはずなのだが、どうやらまだ足りていなかったようだ。
私の手から強引にポテトを奪い取ると、見られるといけないものであるかのように一気に口に押し込んだ。
塩気がとても心配だったので飲み物を与えようとしたがなりふり構わずこちらに向かってくる。
妹1が、先日の私の誕生日プレゼントのついでに西松屋で買ってくれた子のコーン菓子があったのでそれを1袋与えたが足りないと怒るのでもう1袋与えた。
するとさらに食べようとするので菓子そのものを視界から遠ざかるべく適当な箱に隠した。
気がつけば相当な量を食べさせてしまったが、これは甘やかしなのだろうか。
同郷出身でライター・編集者として活躍している夫の友人から魅力的なメディアを紹介してもらったので、ダメ元で履歴書をPDFで作って送付した。
何を隠そう、これまでアナログでしか履歴書を作成したことがなかったので、PC上での書類作成には奇妙な汗がたくさん飛び散った。
まさに新しい文明に四苦八苦するおばちゃんだった。
マウスとキーボードを抱えて、机をよじ登ってくる子をウロウロと避けながら最後まで作った。なんだか楽器を演奏しているようなスタイルになった。
非常に達成感があった。
良いお返事が来ることを祈りつつ、子と晩ご飯の時間を過ごす。
最近は子の食事に関しては完全に温かい目で見守るスタイルを貫いており、どれだけこぼそうが動じないようにしている。さすがにお椀をひっくり返しそうになったり席を立ち上がったりしたときは止めに入るようにしているが。
そんな私の様子見と子の努力があいまって、時間をかければ自力で皿をほぼ空にするまでに成長した。もちろん子の周辺は色々と飛び散っている。しかし構わないのだ。自力で食事をしてくれることがこんなにも喜ばしいことだとは。
年末年始に溜まっていた録画分を夫と見終わった。高嶋兄のグルメ変態ぶりが少し弱かったので物足りなかった。
ひとまずなんとなく一区切りついたような気持ちになった。明日からちゃんと仕事やろうと思った。
こんがりトーストで口のまわりをケガしてしまう
朝、子が寝ている隙に夫のお弁当作りをしたり洗濯をしたりする。
身体を起こすまでは地獄だ。頭のなかで、もし夫のお弁当作りをサボったら1日いったいどれだけ後悔するかを一通り想像してモヤモヤしたあと、やっとのことで布団から身体をべりべりと剥がす。
重い足取りで台所へ向かうが、着いたころにはかなりシャッキリしている。単純なものだ身体というのは。
作るのは超簡単なおにぎり弁当だ。用意した米にふりかけを混ぜ込んで握るだけだ。夫はとても大量に食べるので、おにぎり1個あたり半合分ほどある。
しかし、先日は2合分ほど握ってしまい、さすがに食べきれなかったと報告を受けた。
また、昨日はおかずのバリエーションに困り、側にあったもち吉のサラダせんべいを弁当箱に詰め込んでしまった。さすがの夫から、あれはおかずになり得ないと苦言をいただいてしまった。
というわけで、今回は反省の意も込めておかずを手作りすることにした。
じゃがいもとツナをカレー粉で炒めただけの超簡単なものである。
とてもInstagramなどで写真をアップできるような様相ではないのだが、もち吉よりはマシだろうと思う。
気持ち程度にバナナを1本つけて夫とともに送り出す。たくさん食べるんだぞ。
さて、子がまだ寝ているのを良いことに、自分の朝ごはんを食べることにしよう。
トーストをこんがりと焼いてバターを塗り、一気にかぶりついて飲み込む。
いつ起きるかわからないのでこの時間はゆっくりできない。一気にできることは一気に済ませたいので、あとで仕切り直すのも面倒くさい。
あとで口のまわりを舌でなぞると、縁のほうもケガしているようだった。なんとも間抜けな気持ちになりつつ、お茶を流し込んで二度寝した。
部屋の観葉植物の葉の色が1枚、また1枚と変わっていく。
そろそろ水をやらねばと思ってまた次の日おなじことを考えている。
6ヶ月目に入り、お腹がいよいよ本格的に大きくなってきた。
子の移動に一番身軽だった抱っこひもの使用が難しくなってきたのである。
となると、おんぶ紐でどうにか頑張りたいところだ。ネットであれこれ探してみるがいまいちぴんとこない。
そもそも、装着する以前に、体力がガタ落ちしてしまっていることが問題として浮上してきた。
お正月明けに家族で水族館へ行ったのだが、あまりに動き回る子の歩みについていけず途中ベンチで休憩するという醜態をさらしてしまった。
そんな状態であるにもかかわらずおんぶ紐でウロウロしようなどとは…自分でも大丈夫なのかとおもってしまう。
しかし、家での缶詰状態が続いている今、どうにか外に出る意欲と手段を得たいものだ。
このままでは本番当日、ふにゃふにゃの筋肉で挑むことになる。それだけは避けなければいけないのだ。
ささやかな反抗心から、YouTubeで「誰でも簡単!マタニティ筋トレ」的な動画をタブレットで流す。
子が面白がって乱入してくるので笑ってしまう。筋肉を引き締めるどころではないのだった。
子の運が良かったのでホッとした親心
年が明けた。
今年は子年なので、良いスタートの年となるそうだ。
新しいことを始めることや、転居転職にも最適らしい。
しかし、第二子でお腹が大きくなってしまった身体をさんざん甘やかしていた結果、自宅に関しては大掃除すら終わっていない状態で新年を迎えることになってしまった。
これではあんまりなので、部分的に掃除を頑張って自分を納得させることにした。いまのところ、台所のみ縁起がいい。あとはタタリ場と化している。
子の運動能力が日に日にあがっていく。
高い山に挑み続ける登山家のごとく、家にあるものを使ってさらなる高み(物理的)へと向かっていく。
その危険を顧みない貪欲さには呆れてしまうが、成長が嬉しいことも事実だ。
子は、はじめのころは子ども用の椅子などを使っていたが、次第に両手で机などにつかまりながら、横棒状のものや面積の狭いものまで踏み台にするようになった。油断も隙もあったものではない。
あまりに危険な場合はすぐさま止めに入るが、できるだけ遂行を見守りたいという気持ちもあり(止めればその分ヒートアップされてしまうからというのもある)、複雑だ。
特にパートナーが側にいる場合、そのあたりの認識を共有していないと「なんで止めないんだよ」とモヤッとしたりされることもあるので注意が必要だ。
夫が職場の人たちと初詣に行ってきたらしく、家族分のおみくじを引いてきた。
見てみると、夫とわたしは小吉で子は末吉だった。
ざっくり内容を要約すると、「現状維持。あと安産です」だった。よし、がんばる。
末吉は、わたしは残念賞のように思っていたが、年の後半から運気があがってくるため小吉より良いとのこと。子の運が良さそうでホッとした。これも親心か。
また、ほかにも誕生日くじや安産のお守りももらったりして、夫が神の使いになって至れり尽くせりのようになってしまった。
ここまで書いて、文字数が777だったので気持ちよく終わろうと思う。