親子三代で佐世保玉屋へ
玉屋いこーで、玉屋
わたしに子どもが産まれてから、はじめて迎える5月の『母の日』。
これまでは、毎年ちょっとしたプレゼントをあげたり、ケーキを持って母の家に遊びに行っていたりしていたのだが、今年はせっかくだから、家族でお出かけをしようかと思い至った。
わたしの子を連れて、である。
ちなみに先日は、九十九島水族館海きららにも家族で遊びに行ってキャッキャしてきたばかりだ。
今回は母の日。
特に思い出の深い場所を選ぼうと考えた。
そこで登場したのが、『佐世保玉屋』である。
わたしが幼少のころ、家族みんなでお出掛けしたスポットといえばそこだ。
ショッピングはもちろん、広い食堂や屋上遊園地は必ずと言っていいほど訪れる鉄板コースだった。
また、7階の催事場では毎年行われるサンリオの催しに行ってカラー砂絵で遊んだりしていたし(結構な枚数の作品が溜まっていたとおもう)、
今はもうなくなっているが、8階のローズギャラリーでは人形作家の母が個展を開いて大勢のお客さんが来てくれたのを覚えている。
思い出せばきりがないが、そんなメモリアルな場所なのである。
今では北海道物産展やバレンタイン王国に足を運ぶのみとなってしまった。
玉屋が家族との思い出の場所だということは、わたしだけではなく生まれも育ちも佐世保な母にとっても同じである。
「お出掛けの前日は、遠足のときみたいにワクワクして眠れなくて。当日は張り切ってドレスアップしたなあ。行きは何も問題ないんだけど、帰りは必ずと言っていいほど親とケンカしていたわね」と母は振り返る。
ちなみに、同じく佐世保生まれさせぼ育ちのお義母さんからはこんなお写真を見せていただいた。
すごい。これがおめかしだ。THE★OMEKASHIである。
わたしも身に覚えがないわけでもない。
出掛ける時はかなり気合の入った服装を母にお願いしていたし、
ほしいおもちゃを買ってもらえず、グズって泣きわめき父から叱られたことなんて数え出したらキリがない。
そんなわたしたち親子にとっても縁が深いこの場所に、ぜひわたしの子どもも連れていきたい。
そこで、「玉屋いこーで、玉屋」となったわけである。
ちなみに、佐世保玉屋は老朽化のため2022年3月末までには現店舗の取り壊しに着手する計画なのだという。
今の状態がなくなってしまうまえに、という言い方もおかしいが、わが子には小さいうちに見せておきたかったのだ。
玉屋食堂の焼肉定食で祖父を偲ぶ
お腹も空いたので、玉屋食堂へ行こうとなった。
わたしの祖父(母方の父)は、数年前に療養のため佐世保をやむなく離れ神奈川へ行ってしまい、昨年そのまま帰らぬひととなってしまった。
まだ佐世保にいたころ、年齢は90をゆうに超えたうえ視力も衰え痴呆もひどかったが、威厳と食欲だけはバツグンだった。
母が作っていた肉野菜炒めを「おまえが作った飯は美味いな」と顔をほころばせながらもりもりと食べていたのを覚えている。
それをみて祖母が「よかったですねお父さん」というのが定番の流れだった。
そんな祖父が、通っていた総合病院の帰りに必ず訪れていたのがこの食堂で、決まって注文していたのが『焼肉定食』だったそうだ。
祖父の葬儀のとき、親戚とその話題が出たほど、焼肉定食は祖父のパーソナリティの一部となっていた。
後日、わたしは1人で、まだお腹にいたわが子と一緒にそれを食べに行った。意外にも大変なボリュームだった。
いつも完食していたことに驚いたが、しょうが焼きのような親しみのある味付けなので納得である。
綺麗な食品サンプルが並ぶショーケースの前で、どれにしようかと悩む。
「わたしが小さいころは、ここでご飯を食べた次の日には学校の皆に自慢してたのよ。ソフトクリームだったり、旗が乗ったお子さまランチだったりね」と母が笑う。
“玉屋の食堂でゴハン食べた!”はもはや当時のステータスだったのである。
とりあえず、わたしは最初から焼肉定食と決めていた。
すると母と妹1もそれがいい、という。
全員、食べ物を仲良くシェアするようなタイプではないので別にいいのだが、絵的にどうなんだ。
かつて存在したエレベーターガールの次にレアだとおもう、スタッフ付き窓口で食券を購入する。
食堂は、50名以上は余裕で入る広さだ。
テーブル席とお座敷とある。
祖父母と一緒に来たときは、たしか円卓に座った気がする。
みんなで雑談をしつつも、内装、小物、あちこちに目が行ってしまう。
きょろきょろしつつ他愛もない話をしているうちに、料理が運ばれてきた。
人数が少なかったので、銀の台車がガラガラとやってくるのを見ることができなかったのが残念だった。
焼肉定食が3つ、テーブルの上に並ぶ。
わたしは、タレはあらかじめまんべんなくかける派だ。
母は丁寧に、タレの入った皿に肉を1枚ずつ浸して食べている。
甘辛のタレが牛肉の旨味と絡んでご飯が進む。
あいだにしば漬けを挟むとなお最高だ。
面白いことに、これを食べている時は祖父の話題は一切出なかった。
焼肉定食と一心不乱に向き合った。
全員お腹も満たされたころ、もう1つ注文していたデザートのことを思い出した。
うさぎアイスである。
その名の通り、うさぎを模したアイスなのである。
以前は目がレーズンだったように思うが、今はやっつけ程度にアーモンドが乗っている。
「バナナは耳で、オレンジが両手で、 チェリーは・・・?」
一同は無言になった。
「まあ食べなよ、妹1」
わたしは促した。
これは、わたしから妹1へのプレゼントだ。
昔、妹1が幼稚園の帰りに母とこれを食べたということを後から知り、嫉妬のあまり姉妹で大喧嘩を繰り広げたことがある。
30歳を超えた今、こうして当時の大人げなさから脱した自分を見せつけることができたのだ。
勝手な自己満足感にひたる。
全員が食事を終えたので、屋上遊園地へ向かった。
希少価値は年々アップ。全国から注目を集める屋上遊園地へ
玉屋の目玉のひとつといえば、この屋上遊園地だ。
百貨店の屋上といえば、遊園地。サザエさんにもよく登場しているが、 消えゆく昭和の風景の1つとなってしまい、年々その数は減少している。
現在では全国8ヶ所しか残っていないそうだ。
ちなみに、この屋上遊園地の名前は『プレイランド』。
アトラクションはほとんど体重制限がある。基本的に子どもオンリーだ。
しかし、大人でも乗れる唯一の遊具があった。
それがこちら、「空とぶかいぞく船」だ。
さっそく妹1と躍り出て、30代女二人で乗ってみることにした。
ちなみに、出発時はガクンと反動がくるので注意してくださいねとのこと。
妹1と「うおっ」と言いながら、ゆるゆる動くかいぞく船(モノレール)から見える景色を楽しんだ。
佐世保市博物館島瀬美術センター、親和銀行本店などの市街地のランドマークを視界におさめつつ、ぐるりと一周した。
降りるまえに、スタッフさんに記念撮影をしてもらった。
お稲荷さんへお参りに
玉屋の屋上には、稲荷神社が祀られている。
なぜこんなところに。ふしぎである。
わたしはなんとなく、「ここに親子三代で来れたことが嬉しいです」と伝えておいた。
稲荷神社を後にし、もう少しあたりを散策する。
あともう少しすればシーズンがやってくるであろう、ビアガーデンのほうへ伸びている通路を歩いた。
かえりに、屋上遊園地限定ぬりえというものがあったので購入してみた。
ぬりえの下には、「佐世保玉屋屋上遊園地」の文字と、スカイパークのロゴマークが。
あの、スカイパークか!
ココで初めて、運営の正体を知るのである。
以前、進学の都合で佐賀に住んでいたことがある。
家から少し離れたところに、『神野公園こども遊園地』というこれまたレトロなスポットがあった。
そこへ単身乗り込み、当時ハマッていたmixiで長々としたレポートをしたためたという思い出がある。
そんな奇妙な縁を感じ、胸がドキドキした。
それにしも、ほんとうにいいところだ。
家族と来れて本当によかった。感無量である。
しかし感動に浸りながらも、わたしの心の中には、ふつふつと湧き出る想いがあった。
いまの姿をみて、懐かしいね、レトロだね、よかったね・・・
ほんとうにそれだけで終わっていいのだろうか。
やはり、祖父母や母たちが目にしてきた、当時の姿をわたしも一目みてみたい。
今は今で良い。しかし昔の姿も知りたいのだ
やはり親子三代でやってきた(しかも祖父母のことまで偲んだ)からには、いまある風景だけで終わるわけにはいかなかった。
そこで、昭和の佐世保の一大ランドマークとなった佐世保玉屋の、昔の風景を見てみようとおもう。
株式会社佐世保玉屋の総務部人事課をたずねた。
佐世保玉屋が誕生したのは1806年(文化3年)のことだ。
肥前国(佐賀県)牛津町に荒物呉服商『田中丸商店』を開業したのがはじまりである。
その後、軍事都市として栄えた佐世保に1894年(明治27年)に進出、1918年(大正7年)には、佐世保玉屋の前身となる『株式会社田中丸呉服店』に改組した。
1920年(大正9年)には、栄町に九州初の百貨店となる鉄筋4階建ての『デパート田中丸呉服店』をオープンしたのである。
さらに、1931年(昭和6年)には、1階~5階をつなぐ西日本最初のエレベーターが完成。エレベーターガールもこのときから登場している。
『佐世保玉屋』へと改称されたのは、そこからさらに10年後の1941年(昭和16年)のことだ。
と、書き出すとあまりに膨大な歴史のため詳細は割愛させていただくが、その後も九州各地へ次々と進出し、幾度の大改増築を経て現在の姿に至ったのである。
はじめは小規模な遊び場程度だったという玉屋の屋上遊園地だったが、昭和32年9月には、なんとロープウェーまで誕生した。
これは、5階屋上と7階塔屋間を往復していたものだという。
真下は建物の谷間になっていたため、とてもスリリングだったに違いない。
そして、昭和40年、“若い玉屋、新しい玉屋”をキャッチフレーズに新装開店と至ったのである。
賛否両論あったかもしれないが、まるで若い芽のようにぐんぐんと進化を遂げる佐世保玉屋のようすを、当時の人々はワクワクしながら見守っていたに違いない。
新装開店に人々が湧くなか、その翌年には回転式展望台「ローリングタワー」が完成。
地上30mの11階屋上で、グルグル回りながら佐世保の景色を360度あますことなく楽しむことができた。
あまりに珍しい乗りものに、九州各地から多くの客が詰めかけたという。
この屋上遊園地と、6階の大食堂、5階のおもちゃ売り場を全て“夢の楽園”といわれていたほどだ。
子どもたちにとって「玉屋へ行こう」の目的は、まさにここだったのだ。
ちなみに、そんなファミリーたちにとってとてもお役に立ってくれたのが、当時からずっと現役で稼働を続けている「クローク」だ。
いまやお買いもののお荷物はロッカーで預けるのが当たり前という時代、人の手で預かるなんてのはここぐらいなものだろう。
現在はお年寄りの利用が過半数を占めている。
さて、屋上遊園地の話に戻る。
当時の写真を見てさらに驚いたことがあった。
「コーヒーカップがあったんですね!」
そうだ。当時はモノレール(かいぞく船の前)に加え、コーヒーカップもあった。
位置的には、入口のすぐ目の前に広がっていたようだが・・・。
現在「たまおく交流室」が入っているスペースには、ペットショップとスイーツ販売店があった。
ペットショップまでは、30代のわたしでもかろうじて記憶に残っている。
とある人物から「あそこは動物園があって、小さなクマがいたよ!」という発言もあったが、定かではない。
またさらに、アトラクションの1つに「回転飛行機」があったのだという。
屋上の隅の高い位置に設置されており、回転するときにどの機体も必ず一部が建物からはみ出すつくりになっていた。
8階建ての屋上から一気に地上が見下ろせたわけである。
これは高所恐怖症にはたまらないだろう。
「まえ、透明なUFOみたいなやつありませんでした?上下に動くような・・・」と聞いてみたが、誰も知らないようだった。わたしが見たのはホンモノだったのか。
「そういえば、あのでっかいローリングタワーがあった場所は・・・」
稲荷社殿のうえだった。
この先の階段を、ひとびとはルンルンと登って行ったのだ。
稲荷社殿があるフロアにある作業スペース兼物置部屋は、以前は室内ゲームコーナーだった。
「ところで、なんで玉屋の屋上にお稲荷さんがあるんでしょうね」と尋ねると、
「そりゃ、商売繁盛の神様だからね」とすぐに返事がかえってきた。
この稲荷社殿は、もともとは佐賀県の鹿島祐徳稲荷神社の分社だという。
なにがきっかけだったのかはわからない。
(以前の社長・田中丸善三郎氏が同神社にグレートな賽銭箱を寄付したご縁で、とも)
いまも語り継がれる昭和20年6月の大空襲の際、街と共に大きな被害を受けた玉屋だったが、なんとこの社殿だけは無傷だったのだという。
その後、現在の場所に移されたらしいのだがまさに霊験あらかたである。
恥ずかしながら初めて知ったことだが、ここでは毎年2月に『初午まつり』というものが行われている。
おみくじ抽選会などで、新年の縁起担ぎに多くのひとで賑わうのだそうだ。
稲荷社殿からはなれ、プレイランドに降り立ち、スタッフさんと会話する。
「私が小学生のころは、学校帰りに10円玉を握りしめて友達とよくここへ遊びに来ていたものよ。おやつに玉屋饅頭を買って食べてたね」
玉屋饅頭・・・ほんとうに、知らないことだらけだ。
スタッフさんは定年まで玉屋で勤め上げたのち数年間のブランクを経て再び舞い戻ってきたという超ベテランさんだ。幼い頃から親しんできたという玉屋への愛も深い。
「以前はね、望遠鏡みたいな遊具があって。お金を入れて覗いてみるとカシャンカシャンって写真が出てきて、まるで本当に遠くの景色を見ているかのような遊びができたの」
今も昔も、ここが子どもたちにとっての憩いの場だということは変わらないようだ。
「前はね、あそこはゴーカート場だったのよ」
「え!?あそこがですか!」これは新事実だ。
小規模だったようだが、2~3台程度のゴーカートがコースを走っていたらしい。
余談だが、左手にある岩場のようなものは『幸福の滝』という名前がついている。
その名の通り、以前はいつでも水が流れていたのだが、ビアガーデンの時期以外は機能していない。
4~5年前、とうとう老朽化による水漏れが起きてしまったのだそうだ。
現在は、夏のビアガーデンの時期にのみ力を振り絞り、ライトアップと流れる水で独特の雰囲気を醸し出している。
「屋上遊園地は、古いけどそれが珍しい懐かしいっていうんでね、たくさんの人に注目してもらって嬉しいわ。こないだなんか東北や関東からわざわざお見えになってくださったの」とスタッフさん。
先日、「空とぶかいぞく船」に乗ったお客さんが「街中を電車が走ってる!」と驚いたそうだ。松浦鉄道のことだ。
「高い所からだし、タイミングが良ければ佐世保港の軍艦も見えるしね。やっぱり県外のひとにとっては新鮮みたい」
ふだんはアーケードに隠されて見えなかったものがここにはある。
たしかに、佐世保本来のといってもいい、自慢の景色だ。
「ここがいつまで残るのかはわからないけれど、もっとたくさんの人に足を運んできてもらいたいな」
その後もスタッフさんと景色を眺めながら、親和銀行の建築美のことや、日本一駅間の距離が短い佐世保中央駅~中佐世保駅区間のことなどで盛り上がった。
番外編:「回るお菓子」はいまも健在だ
ところで、佐世保市民なら誰もが懐かしむであろう「回るお菓子」。
正式には『ラウンド菓子』という。
こちらはバリバリの現役である。
これに関しては、他の百貨店でも同じものが見受けられる。
せっかくなので、お土産にとどっさり購入した。
この量で600円オーバー。
とっても高い気がするが、そんなこと気にしてはいられない。
これはいわば、子どもたちにとっての「ご褒美」なのである。
お菓子のパッケージには、“g”というロゴが入ったものが多い。
グラム売りだから、ということだろうか。
20年前と比べると、すっかり様変わりしてしまったように感じる。
30代のわたしからすると、まりも羊羹もなければ、青リンゴガムキャンディもないのはショックだった(偶然の品切れ?)。
なかでも、わたしのなかでどうしても再会しておきたかったお菓子がある。
それがこの、『妖精ビスケット(仮』だ。
楕円形のうすくて甘いビスケットなのだが、1枚1枚に妖精の子どもとその仲間たち(?)がプリントされている。
「かたつむりのタクシー」
「お花のベッド」
「みのむしくんとブランコ」
など、一度見ると忘れられない微笑ましさが魅力的だった。
幼い頃は、このイラストはチョコ味に違いないと勘違いして、舐めて消してみたりしたものである。
現在の回るお菓子は、なんだかちょっぴり小綺麗な様相になってしまったようにおもう。
かつてはあった昭和の街並みと同じようなカオス感が、ちょっぴり恋しくなった。
2022年以降はどうなってしまうのだろう
2022年までには取り壊しとも言われている佐世保玉屋の行く末は、一体どうなってしまうのだろうか。
人事部の大坪さんに聞いてみた。
「安全のため、早い段階での取り壊しは避けては通れないでしょうね。今の状態でそのまま新装開店してほしいというお声もたくさんいただいていますが、現代のニーズなどを考えるととても厳しい。縮小は免れないでしょう。しかし、長年ご愛顧いただいているお客様の生活にこれから先も寄り添っていけるよう、時代に合った形で総力を尽くしていきます」と語ってくれた。
200年以上続く玉屋を、この先もずっと残していきたいそうだ。
「いっそ建て替えたときに、屋上に観覧車つくっちゃったらどうですか!」と笑いながら大坪さんに言うと、「ははは」と笑ってくれた。
この風景は、一旦、という形をもって終わりを迎える。
わたしにとっては、子どもと母親と三世代で思い出を共有できたかけがえのない思い出づくりの場所となった。
「みんなでたくさん玉屋で物を買って応援しよう!」「じゃんじゃん遊びに行こう!」とも言いたいところだが、一番は「今ある姿を見に行こう!」である。
祖父母や両親と共に時代を重ねてきた価値のあるものとして、しっかりと向き合ってみるのだ。
そして、今後どういう道を歩むのかも見守っていきたいところである。
いつまで残っているかはわからないが、わたしはたぶんまた、ここでしか見られない景色をみに家族と足を運ぶことになるだろう。
【参考文献】
※また、ご多忙な中対応して下さった株式会社佐世保玉屋総務部人事課の大坪さん、職員の皆さん、プレイランドのスタッフさん、佐世保市立図書館郷土資料室の職員の皆さん、誠に有難うございました。
【記事を書かせていただきました】